山陽道野磨駅家跡
基礎データ
基本番号 | 0002 |
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番号 | 0002 |
名称 | 山陽道野磨駅家跡 |
指定 | 国指定 |
指定区分 | 史跡名勝天然記念物 |
種別 | 史跡 |
指定年月日 | 2006/7/28 |
地区分類 | 梨ヶ原 |
所在地 | 落地 |
所有者 | 上郡町 他 |
管理者 | 上郡町 |
概要 | 奈良時代には、全国に駅路と呼ばれる官道が敷設されました。 駅路には約30里(16㎞)ごとに駅家が置かれ、馬の乗継や食料の支給、宿泊施設として使用されました。 山陽道野磨駅家跡は、古代山陽道の播磨最西端に置かれた駅家跡です。奈良時代には古代山陽道と方向を同じくする掘立柱建物の初期駅家跡が造営されました。 発掘調査の結果、初期駅家跡は7世紀後半に成立し、8世紀中ごろまで続いたと考えられます。 また、8世紀後半には、場所を移して、瓦葺礎石建物の後期駅家の造営が始められています。 調査の結果、後期駅家は、約6,400㎡の駅館院という中枢施設の中に、正殿・後殿・北東脇殿・南東脇殿が建てられ、山陽道に面した西側に門を開いていることが明らかになりました。 また西門は、すべての礎石が原位置を保っているという奇跡的な遺存状態の遺構であることが判明しました。門扉を据えた唐居敷も発見されました。 最近の研究では、駅館院北西側に「駅楼」と呼ばれる重層建物の存在が考えられており、軍事施設としての側面も検討されています。 また、野磨駅家は『大日本国法華経験記』や『今昔物語集』に説話の舞台として登場し、清少納言が『枕草子』の中で「やまのむまやはあはれなりしことを聞きおきたりしに」と紹介するなど、当時都にまで名が届いた大変有名な駅家であったことがうかがえます。 |
位置図
写真
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